【a_talk-episode 20】
・・・大正村(恵那市明智町)を訪ねて・・・ | |||||||||||||||||||||||||||||
時の旅人、そんな格好の良い言葉を思い浮かべながら、僕はまるで時を旅しているように大正時代の村へ旅をしていようとしていた。そう、そこは岐阜県恵那市の明智町、現代の日本大正村が存在している所である。そもそもこの明智町が、どの様にして日本大正村に変貌を遂げたのか、ここで少し紐解いてみよう。
旧明智町は、飯田地方から名古屋へ繭や薪を運んだ中馬街道と、三河から木曽、信州へと塩や織物を運んだ南北街道が交わる宿場町として栄え、地場産業である製糸業が最も盛んであった明治、大正時代に活況を呈していたと、文面に記載されている。その後、産業構造の変化が始まり、これを境に町の衰退が始まり、過疎化も進んで行ったと聞く。
この衰退を何とか立て直そうと、心ある人々が試行錯誤していた中、昭和58年春、明治、大正時代の良き時代の風情を残したら如何と、一人の文芸写真家沢田正春氏の発案と提言を受け、町の将来性に危機感を覚えていた人々により、「日本大正村運動」が始り、この「日本大正村」が開村したのは、約5年後の昭和63年4月と聞く。
この日本大正村で大正時代から有る施設として、旧明智町役場、大正時代等で流行ったブリキのおもちゃ等が展示されているおもちゃ資料館、大正時代館、逓信資料館等の施設が残されている。 各施設を少し見てみると、かなり情緒のある大正村役場には、村民の木の名札等が掛けて有ったり、昔の人形やポスター等が、所狭しと飾ってあった。この施設は、観光客の休憩の場としても提供されていた。 また、日本大正村資料館には文字通り大正時代の蓄音機、レコード、新聞等のマスコミ媒体、はたまた人形等がこれもまた所狭しと飾ってある。これらの施設で大正ロマンが感じられるのである。 ただ、大正ロマン館は建物自体は古くなく、大正モダンを醸し出す造りには成っているが現代の建物である。この建物の中に展示されているものは、名誉村長であった高峯三枝子さんの衣装や、その他諸々の記念品等が展示されていた。また、大きな古時計を含めた時計の展示や、アコーデオン等の古楽器類の展示もされており、訪れる者にとっては飽きのこないような展示物等に成っているのである。
次に訪ねたのは明智鉄道の明智側終着駅である明智駅である。この大正村に大いに関わっていると感じられるのが明智鉄道だ。明智町の衰退により、旧国鉄時代廃線の憂き目にあい、これを立て直すために、町興しとともに明智鉄道の復活を夢見て、日本大正村企画が立ち上がったと聞く。この町興しがある程度流れに沿って、盛況に成ってきたのを折りに、昭和59年5月大正村を立村し、日本大正村役場の看板を上げれるように成ったと聞く。明智鉄道も、昭和60年11月に国鉄明智線から引き継いで、第三セクターで開業した。
今、この明智鉄道の終着駅明智駅の前に立つと、そこには現代風に建て替えられた駅舎があり、また、そこに停車している列車を見ても、ワンマンで綺麗で個性的な列車がそこには停まっていた。 タイムスリップをして、この地に来たというストーリーを組み立てて思い描いていたのだが、少し興ざめをした駅舎(何の情緒もない現代風の建物)を見せられ、また列車もごく普通の車両であった。(ボデーペイント等でカラフルにはなっているが・・・。中には特別な車両も有るみたいなのだが・・・)期待を少し裏切られたと思ったのは、これだけではない。日本大正村と銘打っているので、大正時代の建物や街並を保存し、絵をつくり、ここに来る観光客が、その空間の中に浸れるように成っているのかと期待したのだが、少し失望が先に来た。
その街並は、点在する大正時代風の絵になる建物と、生活感が漂う民家等の建物がそこには混在する。ボランティアさんの活躍は、この町のテーマパーク化に貢献されてはいるのだが、如何せん通常の生活の臭いがそこには有る。また、せっかくのテーマパーク化が成されているのにも関わらず、その中に巨大なな英文字の看板を出した超リアルなスパーマーケットがそこには存在する。
今回の日本大正村を訪ねて思うことは、いかにテーマパークは作られるものかと・・・。また、そこには地域住民の協力も含め、日々感性を高め絵づくりを施さなければならないか、大いに感じるべきものがあった。
ただ、色々な施設の、色々な大正時代等の展示物を見るのも面白いと感じる。一度は訪れてみるのをお勧めする。Photographer 岡田 朗 |
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