【a_talk-episode 21】

・・・織田信長の再来を期待する・・・
 何かしら身体にまとわりつくものを感じながら、気の赴くまま岐阜城へ向かっていた。そう、この地域が輩出した3英傑と唱われている中の最も偉大な織田信長の居城の一つで有った岐阜城。この岐阜という名も織田信長が付けた地名であり名称と聞く。よくテレビ等時代劇や歴史小説の中に出てくる齋藤道三が造った難攻不落の稲葉城と称された城である。この岐阜城があるのが金華山である。その所在は岐阜県岐阜市の中の東側にあり、岐阜城の番地も岐阜市金華山天守閣18と、その名称が住居表示に使われている位有名な場所である。


 以前から気にはなっていたのだが、岐阜城とは、どれだけ雄大な夢を与えてくれる城なのかと、思いをはせながら伺ってみた。

 この金華山は標高329mの山であり、その頂上の限られた平たい部分に岐阜城天守閣が建てられたそうである。戦国時代の情景を思い浮かべながら、この岐阜城天守閣へ向かった。金華山登山ルートは幾つかあり、その一つで比較的なだらかな登山ルートの七曲り登山ルートを使用し登ってみた。このコースは全長約2Kmの道のりがあり、金華山ロープウェーが出来るまではメインのルートだと聞いた。金華山へ登るのは、やや傾斜のきつい斜面を登るので、戦国時代には鎧甲を着けて攻め入るには大変な事だと感心をして、重いカメラ機材を肩に背負い、まだ見ぬ岐阜城の雄大さを思い浮かべながら、約1時間の行程だが登ってみた。


 木々の間から下界の風景を垣間見ながら、頂上付近に近づき、ついに岐阜城へたどり着いた。そこには見晴台も含め荘厳な城が建立されていた。そして城に入り、各階の展示物等を見ながら一番最上階の展望室へと進むと、そこには360度のパノラマの世界が、眼下に広がっていた。南方は濃尾平野全域を見渡せ、北方には長良川が流れ、その向こうには大きな山々が連なっている雄大な景色が見え、壮大なドラマが転回されていた。


 その興奮が冷め止まない時ふと思ったことがある。よくテレビ等の時代劇で岐阜城を表す時、齋藤道三、織田信長はもとより、その軍議や謁見等で見える大広間は、今居るこの天守閣では、何処にもそのスペースは無いと言う事である。また、この天守閣付近に集まれる軍勢は多くて1,000人居れる場所が、有るか無いかのスペースしかないと言うことである。要は何時も遠くから眺めていた岐阜城は、単に岐阜城の一部の天守閣でしかなく、難攻不落と言われてはいたが、ここで戦国時代に籠城すると言うことであれば、すなわち、もう戦いには敗れていたと言う事で有る。本当の岐阜城は、長良川を巨大なお堀として北の守りに当て、金華山そのものが巨大な岐阜城だったと言う事で有る。その証拠には織田信長の居館は金華山の麓に有ったとされ、またそれに伴う武家屋敷や兵士の住まい等も、この山麓にあったと聞く。これでこそ何万もの軍勢を調える事が出来ると言うものである。


 信長の「天下布武」と公に唱えたのは、やはり天守閣から見た眼下に広がる景色を見て、それを確信し意識したのかも知れない。清洲城から小牧城へ、そして岐阜城、最後に安土城。織田信長の破壊力、改革力、創世力等、何れをとっても群を抜けて長けたものがあり、織田信長が居らなければ豊臣秀吉は存在せず、また徳川家康も存在出来なかったのでは無いかと感じるのである。


 今の世に本当に織田信長が欲しいものである。(金で金を生む政策しか出来ない政治家は要らない。)「織田信長」については今後とも時あるごとに書きたいと思う。


 ところで、この岐阜城を訪ねるにあたり、車で来たのだが、その駐車場等への案内が、分かりづらいこと、この上ないのである。また、この付近の信号の設置場所に置いても、その信号を確認するには分かりづらい所に設置されている。岐阜市以外から来る観光客について、甚だ不親切である。(保守王国の成せる技か…)これは売店等で働いているお姉さんも感じている事のようである。折角の「岐阜城」であるので、岐阜市が悪い印象を持たれないよう行政のフォローも期待したい。
   
Photographer 岡田 朗



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