心の赴くまま、とある雪の交じる生憎の日に織田信長誕生の地と称される勝幡城を訪ねてみた。
勝幡城は織田信長の祖父が建てた城と聞き、津島方面の商業利権を手に入れ、力を付けて行ったそうである。織田信長の父信秀は、これらの財と兵力を持って、当時、今川氏の手にあった那古野城を攻め落し、ここに移ったそうである。 信長が誕生したのはこの時代であり、定かではないのだが勝幡城誕生説も不定出来ないようである。その勝幡城の今を訪ねてみた。
勝幡城は今の名古屋駅から西に10q位離れた場所の三宅川の辺に有り、地番は現在稲沢市に属しているが以前は平和町であった場所だ。この広大な濃尾平野の多くの川が流れる自然豊かな場所(砦のような平屋の城)で信長は生まれたのかもしれない。そして那古野城へ移り、幼年期少年期を通して奇想天外な発想と行動が重なり合い、とてつもない大きい人間形成がなされたのかも知れない。ただ、今の勝幡城は名鉄の勝幡駅にその銅像と誕生したであろう勝幡城のジオラマが展示されているに過ぎず、城跡は無く、ただ単に勝幡城跡という石碑が建っているだけである。(発想次第では町興しの原動力に成るのだが…)織田信長の生立ちを顧みるに、この尾張の地形、気質、財力、宗教等心に留め置くには良い機会であるが、それらを探ってみると益々興味深いものがあるように感じてならない。
そして次に清須城を覗いてみた。ただ今の立派な清須城は、1989年に旧・清洲町の町制100周年を記念し、清須城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内にRC造によって建設された模擬天守と聞く。(但し、外観規模はその当時の様に建てられたようである。)要するにここは織田信長が桶狭間の戦いに向かった時の城ではないのである。現在の城は、その当時の資料等展示をされている博物館なのである。内部は所狭しと展示物があり、またジオラマや映像等でその時代の様相を演出している。信長がこの清須城に居たのはわずか8年くらいではあるが、その当時は、天守を持つ平屋城で、その周りには武家屋敷や商人街等が点在していたのが分かる造りになっており、この清須城の周り以外は、ほぼ水田の状態であったように見える。ただこの信長が居城して住み、そして徳川時代の清洲越しが行われるまでこの清洲は、尾張の中心都市で有ったと聞く。今の清洲城で1点、展望室から見る眺望はなかなかの景観である。名古屋駅方面の高層ビル群を眺める景観は特に素晴らしいものである。と少し織田信長から脱線したのだが、織田信長の時代、その戦国時代において、この清須城天守から諸国を眺めている織田信長の姿を思い浮かべると、壮大な夢等が現実のものに成って行く様が手に取るように成っていくのが分かる事を感じるのである。
織田信長の原点はここ尾張に有り。この尾張で培った行動力、知力、洞察力、発想力、財力等の力を結集したのが桶狭間の戦いであり、その後の各戦いでもあり、また商業や街の発展にも貢献した政策力が光ったのではないかと感じるのである。今の清洲城もこの町の発展の為に一役買っているのは確かだが、今後の展望は定かではないと感じる。そこには新しい発想が必要なのかも知れない。
今の政治家のトップ(行政のトップ)が自分の余暇をゴルフではなく、お忍びでも良いので市中に出て、本当の意味(頭上の数字マジックではなく。)で庶民の暮らしぶり等、庶民の声をもっと聞くべきではないかと感じるのは、自分だけではないと思うのだが…。発想の転換でまだまだ内需拡大はでき、また国民を守る為のもの(科学の粋を結集)を作る行為等の政策、考えれば山ほど有るように思えるのだが。(足を引っ張る強大な組織も存在はするのだが…。)
昨年も書いたが『出でよ、織田信長』。 Photographer 岡田 朗
|