【a_talk-episode 28】

・・・七里の渡し(宮宿と桑名宿を訪ねて)・・・
 川面に揺られながら棚引く風のように、江戸時代の宮宿にある七里の渡しを訪ねている。現在の地名は熱田神宮のすぐ南側で名古屋市熱田区神戸町に位置する。今回は江戸時代の東海道で唯一の海上路である七里(約28q)の渡しを訪ねてみた。但し海の上を訪ねる事は出来ないので七里の渡しの船着き場である宮宿と桑名宿を訪ね当時等の風情等を探訪してみた。


 先ずは宮宿である。ここは熱田神宮のお膝元であり宮宿の宮という街名もここから来ているかも知れない。ところで現代の宮宿と云えば、その盛況さは住宅街へと変貌し、穏やかな場所へと変っていた。常日頃、このような場所(船着場のような・・・。)と後に復元された鐘楼等公園が有るのは分かっていたが、実際この場所を訪ねて分かった事は、この宮宿の七里の渡し場から本当に海が見えるのである。堀川と新堀川が交わり、そして三方のもう一つを眺めると、そこは明らかに川幅が広く取られ一直線に名古屋港が見えるのである。(あえて堀川と新堀川の起点をこの宮宿の七里の渡し場からにした方が違和感がないように思える。)言い換えれば名古屋港の一番奥深く陸に面している場所(入り江)が七里の渡し場で有るのである。車の窓から見る光景で前々から漁船やプレジャーボート等が多く係留されていたので、何処から海に出るのか不思議に思っていたのだが、全ての謎が解けたような気がした。(単なる公園前の運河等が整備をされている狭い水路しかないと思っていた。)


 この場所の眺めは、まだ十分に昔の七里の渡しを思い描けるだけの素材が残っていたのである。

 海を渡り名古屋港から直線に流れ棚引く潮の情景。はたまた漁船等の船舶の係留。そういえば七里の渡しに使われた船は
4050人乗や35人乗りの乗合船が約75艘使われていたそうである。またここには当時の船着場の遺構も一部残っており、それや桟橋、後で復元された鐘楼(時と船の発着を知らせるのを目的としたものと思われる。)、鳥居等懐かしさが伝わってくるものがそこにはある。

 それから今は運行しているのかどうか分からないが、七里の渡し公園の外れに鳥たちの楽園になっている桟橋があった。そういえば少し前にはこの堀川をクルーズする目的で船を運航させる計画があり運行していたように記憶している。盛況だったかどうかは記憶にないが、今この七里の渡し公園に来てみると堀川を船に乗ってクルーズしたくなる気分になるのは自分だけだろうか…。



 ところで、これまでは宮宿だけを追ってみたが七里の渡しのもう一つの船着場が今の三重県桑名市に有った桑名宿である。ここは桑名城跡がある九華公園付近に七里の渡し場がある。残念ながら、昭和の伊勢湾台風後に高潮対策の防波堤が設けられ、旧観は著しく変化し、港としての機能は全く失われたと聞く。

 ここを訪ねた時、まさしくその様な事を感じる風景が広がっていた。ただ、この場所には伊勢路への第一歩という事で伊勢神宮の『一の鳥居』が建てられている。宮宿と桑名宿では少々趣が変って見えるようである。

 これは少し余談にはなるが、この桑名の九華公園には桑名城跡というだけで建家はない。しかし敷地内のお堀の整備が施されており、憩いの場としては申し分ないように思える。ただ、この公園内でひときは眼を引きつける大きな建物がある。そう有名な『柿安』である。何となく自分は違和感を感じるのだけれど…。



 

 何はともあれ東海道七里の渡しを今回は当時より格段と道路事情が良くなっているので車で移動したが、江戸時代には揖斐川、長良川、木曽川等の大河がその陸上通行の邪魔をし、海路で船に頼るしかなかったと感じた次第である。(脇街道の佐屋街道も距離はないが船旅が最後に待っている。)ただ、折角このような場所が残っているのだから風に吹かれながらノスタルジーに浸る事の出来る江戸時代(安土桃山時代含め尾張人・三河人が作った時代国家)の東海道宮宿と桑名宿を結ぶ現代の海路を渡ってみるのも良いのでは…と感じる次第である。

 国民がその歴史を享受する為に税金を投入するのも一考かも…。 
Photographer岡田 朗





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