【a_talk-episode 41】

・・・伊賀の里、伊賀上野城を訪ねて・・・

 絡繰り屋敷を垣間見るように、目まぐるしく目の前の情景が変わっていく様子を思い浮かべ、忍者の里、伊賀上野を目指した。


 この伊賀上野には忍者発祥の地でもあるが松尾芭蕉の生誕の地でもある。そう江戸時代に全国を旅し俳句をその時々の場所で作り嗜む等の行為を行った人物であると聞く。ただ生誕した場所と江戸時代という時代背景を考えると、表の顔と裏の顔が垣間見えてくるような気がする。(公儀の隠密だったりして・・・。少しの夢があるのかな・・・。)というような所に安土桃山時代から江戸時代にかけて伊賀上野城と言う戦略的価値のある場所に城が造られたようである。


 最初は豊臣秀吉の命により筒井氏が関わり、後に築城・軍略の大家と唱われた藤堂高虎が徳川家康の命により領主となり、当時はまだ豊臣家が存在していたため、それに備えるため上野城の石垣を、特に西に対しては高く積み上げ、その城下町は南へ移され完全に武装した軍備の町に生まれ変わったと聞く。ただ、本当にこの石垣(巨大な石の石垣の上に立つとよく分かる。囲いがないので少々危険だとは思うのだが想像を絶する深さのものが迫ってくる。)とその下にあるお堀とのコラボは見るからに迫力のある作品であり文化財であるというのも頷けるものである。しかし、その天守閣はと言うと、この藤堂高虎の時代には自然災害の猛威や時の徳川幕府の意向で完成しなかったと聞く。(藤堂高虎の領地の一部であってこの上野城には城代が置かれただけだったのようである。藤堂家の居城は津城であったようである。)


 そして時が流れ今の天守閣が完成される運びと成ったのは昭和10年ころであり、その経緯は、この地区の衆議院議員であった川崎氏の尽力(私財を投じる力)に委ねることが大きかったようである。後にこの城を「伊賀文化産業城」と名付けられたのも何となく納得させられるものである。

 ここで天守閣も出来上がったので、この伊賀上野城についての地理的情報をお知らせする事にする。伊賀上野城は三重県の伊賀市にあり、以前は上野市と呼ばれていた地域なのだが、平成の大合併で上野市と伊賀町等が合併し伊賀市に成り、現在の住所表示は伊賀市上野丸ノ内におかれている。



 と云う事で、この伊賀上野城は他の地域の天守閣と少々違った部分が垣間見える事である。それは、伊賀上野城は純和風の様相では無く、その勇士が洋風に見えたと言う事である。大正から昭和にかけての時代背景がそこには有ると見て取れる事が考えられると思うのだが・・・。何となく縦長の窓等が白い壁と相まって洋館のように見えるのは自分だけかもしれないが・・・。
 また、この城の天守閣の最上階の天井には、完成を祝してその当時の著名人等の署名や絵画の作品等が多く寄せられて施され造形を象っている。それは、この川崎氏は俳聖松尾芭蕉翁をこよなく愛する文化人で書・画・陶芸等を造作する秀でた芸術家(雅号・「克堂」)でもあったように聞き、特に俳聖松尾芭蕉翁に対する敬仰の気持ちは半端では無かったようである。

 余談ではあるがこの伊賀上野城公園内に俳聖松尾芭蕉翁の俳句に因んだお堂がある名を「俳聖殿」という独特な建物も存在する。


 この伊賀上野城等の勇姿(迫力のある立派な姿)を見ながら思う事は、昔の代議士は私財をなげうってでもその地区の為に貢献できる事で有れば、その尽力を惜しまなかったのかもしれない。この川崎克代議士の孫に当たるのが今の二郎衆議院議員だが、この方も含め私財を投げ売ってでもその地域のために成る事であれば、その尽力を惜しまない代議士は今どれ程存在するのだろうか。

 代議士に成ってはいけない人物がどの政党問わず増えてきているのではないか思うこの頃である。出でよ頭(かしら)、出でよ政治家。
 
  Photographer 岡田 朗






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