まだまだ底冷えのする寒さが続く中、ふと頭を過ぎったのは織田信長に起因し豊臣秀吉が繋げ徳川家康が最後を仕上げた天下布武。最後の達成者としての徳川家康たる人物像の一端を探るべきそのルーツを少し紐解いてみた。
家康が徳川氏になる前、そう松平氏で有った時の発祥の地とも言える松平郷は豊田市に存在する。松平郷は豊田市街から東に約10qの国道301号沿いの山間部に位置し、そこにはやはり家康の因んだのか葵のご紋の松平東照宮なるお社が存在する。ここでは家康にいたるまでの松平家の八代の歴史があるそうで始祖親氏等が祭られている高月院もあると聞く。
現在は松平郷園地となり公園整備をされた空間が存在する。少し山登りをするが松平郷展望テラスなるものもありそこを尋ねると意外や意外、豊田市街やその他周辺の景色が開け遠くは名古屋駅前のミンドランドスクエアー等のビル群も見えるのである。始祖親氏が関わったであろう霊験あらたかなお洞が有ったりと興味を覚える空間が存在する。家康の体の中のNDAはここで培ったものも生きているのかもしれない。そして、その後、松平清康等が手に入れた岡崎城へと続くのである。
岡崎城が徳川氏の発祥の地と思っていたが、家康はそういえば松平竹千代で有ったのを思い出す。家康が生まれたのはその当時支配していた岡崎城だったかもしれないが、元々は松平氏の居城で無かったかもしれない事が脳裏を過ぎった。その家康も竹千代時代には織田家に人質で取られたり今川義元に人質で送られた(竹千代8歳の時と聞く)りと、その幼き時代は苦労の連続であったと聞く。ただここで一つ思うのは徳川家康が三河の武将と言うけれど、今川家に送られてからその今川家で手厚い教育を受け元服し当初は駿河に居を構え後に岡崎城に戻ったと聞き、織田信長と対峙する桶狭間の戦いまでは今川家の武将だったのだから本当に三河武士で良いのか少し引っかかる部分もあるには有るのだが・・・。その桶狭間の戦いで破れ、後に岡崎へ入城したと聞くから尚更である。
岡崎城は徳川家康そのもののように言われていたが、実際そこを尋ね歴史を紐解いてみると面白い事が見てとれたのである。家康がこの岡崎城に滞在(居を構えたと言えない位の短い時間)していたのは僅か10年余りの事でしか無かったのであると聞く。(偉いのはその家康について行った三河武士団なのかもしれない。)家康という人間が形成されたのは今川時代の事で、それは家康が晩年になって選んだ土地が全てを物語っているのかもしれない。それは生まれたのは岡崎城(三河)であるかもしれないが、人間形成が成されたのは今川氏の本拠があった今の静岡市の駿府であると記されている。多感な少年期の思い出は忘れられないものである。家康の晩年はこの駿府で締めくくられたのである。
ここで、天下布武に戻るが、やはり織田信長がいてこそ豊臣秀吉の天下が来たのであり、それを後ろから支え苦労を重ね、じっと我慢をしてきた徳川家康が最後に天下を収め、江戸時代の約200年に渡る礎を築いたのだとここに少しは実感できたようである。
ただ色々なアイディアを出し、本当にこの国の形を変えようとしていたのが織田信長であったのだと改めて思う次第である。その志半ばにしてこの世を去ってしまったのは、後世の民主主義の謳歌を求める国民にとっては大いなる損失だったかもしれない。(明智光秀を調略した機内の勢力は成功したのかもしれないが・・・。)
最後に一つ言いたい事があるのだが、それは岡崎城の造りである。今までにこの中京地区に存在する城へ伺ったが、多分初めてだと思うが、天守閣の展望でその全方位が金網に覆われている姿を・・・。望遠鏡がある部分だけがせめて何もない空間に成っているとか創意工夫が有るとは思うが、それすら一切無い金網が張り巡らされているのである。安全性も必要だがそこから眺める景色も重要なアイテムである。何か今の世の中を象徴するみたいな規制が張り巡らされている情景は如何なものであるか・・・。徳川家康が嘆いているかも・・・。 Photographer 岡田 朗
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