【a_talk-episode 56】

・・・天下分け目の憂い・・・

 世は武士の時代、豊臣秀吉が織田信長の戦力を受継ぎ、この時代をある程度まとめた後、その内部抗争により東軍と西軍とに分かれ欲望を満たす為に戦った関ヶ原の戦い。武士による利権等欲望の渦巻く戦いであったことは言うまでもない。すなわち東軍の総指揮者(総大将)は徳川家康であり西軍の総指揮者(総大将は毛利家)は石田三成であり、利権と欲望に赴くままに戦った関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わったが、その戦力は拮抗し、どちらかと言えば西軍有利と聞いたことがあった。それが、たかが1日足らずで終わったのはやはり指揮者の資質がそこに表われたに他ならないと思うのである。その意味で大垣城は重要な要素の一つであると思われる。


 それというのも、西軍の石田三成は当初この大垣城に入り、ここでの戦略を試行錯誤していたが周りは濃尾平野である。隆起している土地も少なく戦略の方法が限られていると判断した三成は自らここを出、起伏の飛んだ関ヶ原に陣を構え戦いを挑んだのである。


 大垣城は今でも大垣市内の中心部にあり、周りは住宅街に囲まれており、しかも大きな堀等が無く平坦な城なのである。この天守閣に登って
360°見渡しても広い農地が有るだけである。小心者では気が休まる事が出来ないだろうなと感じる場所でもあった。ただ、戦略的にはここを起点とし周りに兵を陣取らせ色々な戦術(武田信玄や上杉謙信が行った陣形等の組立て。)を張り巡らせることは可能だったかも知れず、またこの大垣という場所は水の都と言われている部分もあり、近くの大河より灌漑工事により用水を巡らすことが出来た地形でもあると聞く。これらの水を使い外堀や内堀を構築した当時の大垣城は堅牢な城ではなかったかと思うのである。ここを拠点し東軍と戦えばその後の世の動きは変わっていたかも知れない。やはり石田三成という人物はその器ではなかったと言うことである。権力の継承は家康に渡ったのである。


 と思い巡らせながら今の大垣城を訪ねた。今は大垣公園の一角に過ぎず公園には神社も備えており市民の憩いの場と成っているようである。緑豊かな自然が整備され、また遊戯施設も併設されこの広大な敷地が管理されているのである。(この地にも隣国の民が入り込んでいるのか大垣城の入場門で小さなビデオカメラで一番邪魔になる場所に居座り、延々と撮影し、ネットに利用する為なのかは理解できないがそこに居た。独り善がりで邪魔になるのである。)


 この憩いの場でもう一つの場所があるそうで、それは松尾芭蕉の「奥の細道」の結びの地と言うことを聞いた。この大垣城の外堀を構成していると思われる水門川沿いに存在し大垣公園の縁から公園整備された水門川沿いを散歩かたがた行くには丁度よい距離のように思える。この奥の細道むすびの地には記念館が建てられ一応の観光の形には整っているようである。(但し、新しい分だけ入館料が高い。
300円とは…。大垣城入館料は100円だったのに…。)この記念館以外に、その川縁には豊かな水の流れと整備された緑の施設と銅像と石碑がここが奥の細道の終点と言うことを物語るように整備されていた。何となく、この方がほっこりするのである。芭蕉そのものは全国を行脚している俳諧人なのかも知れないが生まれは伊賀である。江戸時代の事を考えると隠密と言うこともあり得るかも知れない。時代を検証すると少し楽しくなるのである。


 人の世は何時の時代でも利権や私利私欲が絡む。この大垣という地はある意味においてその時代の利権、利害、私利私欲等に翻弄された舞台になったのかも知れない。今の民主主義の選挙においても同じ事が言えるのである。その器にないものがその時代のトップ等要衝に建つとその国は滅びる。今の時代、それが是正できるのは国民の持っている選挙権なのだが、その機会に恵まれてもそれを行使できない民が沢山いるように思える。

 昔からの因習を重んじる民は、自分では自分の殻を破れないのかも知れない。それが今であり、滅びの前奏曲の始まりであるのかもしれない。
Photographer 岡田 朗








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