【a_talk-episode 6】

・・・名古屋城・・・
 名古屋市の中区と北区に跨る熱田台地の北端にその強大な敷地の城がある。言わずとしれた名古屋城である。今更ではあるがここで少し名古屋城の歴史について紐解いてみよう。


 時は戦国時代、織田信長の誕生から幼少期、成人にかけての居城であった那古野城は今の二の丸辺りに有ったと言い伝えられているが定かではなく、その織田信長が天下布武の足がかりになったのは清洲城であり、この周辺地域が江戸時代幕開けの時まで尾張国の中心であった。それが今から約400年位前に徳川家康によってその立地条件が思わしくない清洲より名古屋の強固な地盤を持つ熱田台地の北端に名古屋城が造られろことになり、それに伴い尾張国の中心が清洲から名古屋に移され、そこに暮らす家臣や町民も通称『清洲越え』により寺社や文化等も併せて大々的に移住が敢行された。余談だが、この時、現在の大須にある大須観音も岐阜羽島方面から移らさせられたと聞く。またこの名古屋城の歴史の中で第二次世界大戦(太平洋戦争)により本丸御殿、大天守、小天守等焼失したと言う悲しい出来事があり、昭和34年に地元商店街の尽力と全国からの寄付により再建された。(資料参照)これら色々と歴史のあったその尾張国の象徴「名古屋城」の今を尋ねてみた。


 城門より入場料500円を払って入ろうとした時とても清々しい声で呼止められた。そうそう、戦国おもてなし武将隊がこの名古屋城にはいたのである。ただ織田信長等蒼々たるメンバーにはお目にかかれなかったが元気な声で声をかけられるという事は非常に気分が良いものである。惜しみなくはこれらの配役の任期が短くない方が良いとは思うのだが・・・。良い事は長くかけて育てるのが本来の姿だと思うのだが。パンフレット等仕入れて城門から中に進むとそこは新緑豊かな広大な敷地が広がっていた。名古屋市の中心部にこれだけの緑地帯があるのは市民とってもありがたい事であり、名古屋城の北側に隣接する名城公園まで含めると本当に広大な土地になる。(ナゴヤドームの何個分かは分らないが・・・。)今は名古屋城の修復工事やら本丸御殿再建工事等工事の養生が至る所に見えて少々興ざめする事もあり、また城域内を周回することも出来ない状況でもある。少々残念な気持ちを抱えつつ本丸御殿等の工事中を横目に見ながら一路本丸天守閣へと進んでいった。この天守閣も先にも述べたように戦後に建てられたもので江戸時代の名残は限りある展示物のみでエレベーターや回廊がある近代建築に他ならない。その中で一番最上階の展望室へ上がり名古屋の街を眺めてみた。すごい眺望と言うほどではないにも関わらず戦国時代の末期の街並が垣間見られる思いがしたのは自分だけか。(窓枠に填っている透明な素材が汚れていて眺望が見づらいのである。ここまでの心配りが有れば感激なのだが・・・。)これらの眺望を心にとめつつ他の城域内を見てみるとそこには江戸時代初期に有ったであろう本丸御殿の造営が始まっていた。工事用の養生で囲っているけれど完成時はこの養生を取っ払い見事な本丸御殿がお披露目される事だろう。


 ところで、これも余談ではあるがこの名古屋城は戦国時代最後の戦う為の砦として造られたと聞き及ぶ。要するに行政としての政治を司るための城ではなく、他国より攻め込まれた時の戦う為の機能を備えた城という事である。時は変るが現代もなにかしらの言知れぬ感覚のある意味戦国時代ではないと思う。名古屋も戦いが必要なのかも・・・。この名古屋城を観て思った率直な感想なのかもしれない。最後に観光客で中国人や他国の人達が多く来られているのには少々驚いた。 Photographer 岡田 朗


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