・・・越前を歩く・丸岡城から東尋坊へ・・・
かれこれ1年半くらい前になるのだが、越前の国の重要文化財である丸岡城を訪ね、一筆啓上「日本一短い手紙」の館を訪ね、そして日本海の荒海が一目で分かる東尋坊海岸を尋ねてみた。
東海北陸道を北へ北へと進み、岐阜の白鳥インターを出て一般道と共用している中部縦貫道で福井の大野インターを目指し一路西へ西へと舵を取り北陸道の丸岡出入口を目指した。そして少し北西へ向かうと程なく周辺が整備をされた丸岡城が現れる。
ここで少し丸岡城というものの成立ちについて話をしよう。この丸岡城の築城は戦国時代に遡り、織田信長が越前の朝倉氏を滅ぼした後その地域に蔓延る寺社関係の一掃に織田家家臣の柴田勝家に大軍を付けて送り出し、その勝家の甥の勝豊が丸岡の地に築城したのが始まりのようで、そこには青山家や家康の家臣で有る本多家に移り有馬家で明治維新になり現在に至るようである。この丸岡城は、越前の平野部に造られたもので、現存する天守の中でも古い建築様式のようで、外から見ると屋根瓦が二層になっており2階建てに見えるのだが内部に入ると 3階建てにその造りは成っている。木造で造られたその天守は望楼式天守と呼ばれその後に出来た層塔式天守と比べるとその建築様式で時代が解るそうである。それから屋根も石瓦で造られているところに特徴が有るそうである。昭和初期には国宝に指定されたようではあるが残念な事にそれから福井大震災で倒壊し、今あるのはその後に修復された建物で国の重要文化財には指定されているようである。このお城はこの時代でさほど大きな建物ではないが木造の暖かみが感じ取れ、天守から眺める景色も中々乙なもである。田舎の消防署の望楼のようによく見渡せるのである。そして内部も色々な歴史のある調度品が展示され訪れる者を飽きさせないような施しがなされているようである。
古き良き時代の贈り物から このお城の周りに建てられた館で「一筆啓上、日本一短い手紙の館」なるものを尋ねてみた。
何故、一筆啓上館なるものが出来たのか、歴史を少し遡ると戦国時代、家康の家来であった本多作左衛門重次 なるものが陣中から妻に宛てた手紙が手本となる心のこもった短い手紙であったため、それをモチーフとして募集し、一筆啓上賞や優秀賞等を選定し、これらを集めた展示館として運営していると聞く。一筆啓上賞等のコンクールは本物の手紙文化の復権を目指し、全国初の手紙コンクールとして平成5年にスタートしたそうで、心温まる文面がそこかしこに存在し、とても心温まる時間を過ごさせて頂いた。
そして、次に向かったのは越前海岸が誇る日本海に接した岸壁で、すごい縦に切れ込んだ岩が連なる東尋坊である。縦に切れ込んだ岩が連なり、その深さは計り知れなく、今にも海に吸い込まれそうになる感覚は、そこに立っているだけで恐怖がこみ上げてくる様である。今ではこの観光化された海岸に多くの客が訪れ、少し離れた有料駐車場からお土産物店が連なる軒先を進んで海岸に出るのである。お土産物店が軒を並べる光景は観光地そのものでこの景勝を回る遊覧船も岸壁下の船着場より出ている。夥しい岩の重なるその海岸線の岩の上から下の海を覗き込むとそこは水の澄んだブルーの海面が見え心が和むのではあるが、ふとしていると吸込まれそうになるのでドキッとさせられる。
これらの景観を心に納めながら越前を後にしたとき、その道すがら三国港に出くわした。日本海に面した漁港で色々な文献にも出てくるような有名な港なのだが実際に見た光景は水揚げの魚が無く、市場が開場していなく閑散としていたが、その容姿に哀愁が漂っており、少なからず絵になる光景が垣間見えた。
今回の越前御旅でまだ見ぬ場所がある。それは戦国時代の朝倉氏栄華を極めた地である一乗谷城に伺えなかったことである。また、越前を尋ねるのを楽しみにしている。一度は越前を訪れるのも良いかも・・・。 Photographer 岡田 朗

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