・・・鉄筋・コンクリート大阪城ビルディングロケ・・・ | |||||||||||||
冬まっただ中の昨年の2月の事になるが、コロナ禍になる前に大阪城へ行くことができた。どうして大阪城を見たいのかというと、織田信長の後、豊臣秀吉が天下を取った、その象徴たる大阪城を見てやろうと考えたからである。
マスコミ情報等でインバウンドが盛況でなかなかの賑わいを見せていると聞及んだ事も一因ではあるが、豊臣秀吉という戦国武将が何故この地にお城を築いたか、その経緯を見聞きし、肌で感じたかったに他ならない。
ところで、この大阪城の歴史を紐解いてみると、この場所は元々浄土真宗の一向宗の総本山であった石山本願寺があった場所のようで、戦国時代に全国に散らばる一向宗徒に対して多大な権力を握っていたようである。そして、この場所は戦国時代には今のように街中に立地するのではなく、大阪湾に突出た半島で、上町台地と云われた場所であり、大阪湾の物流等の交わる要衝であったようである。これらの利用価値の高い拠点を攻めたのは戦国の覇者たる織田信長であり、しかるにその戦いは11年もの長きにわたって行われたそうである。この石山本願寺が中々落ちなかったのは西国の実力者、毛利軍(村上水軍等)が助勢した事もさることながら、半島で、しかも台地であるとという地形を生かし入口を一つに絞れた事が大きな要素の一つであったようである。だが、この毛利軍の村上水軍に対して織田信長は鉄板を張った強大な船を建造し対抗し、これに勝利して後、石山本願寺が陥落したそうである。そしてこれらを見ていたのが豊臣秀吉である。そして織田信長が明智光秀(公家等の調略による・・・)による本能寺の変で討たれ、それを秀吉が討ち、柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで 討ち滅ぼし実質の織田信長亡き後の後継者となったのを機に、この難攻不落の石山本願寺跡に天下人に相応しい巨大な大阪城を築城したのである。そして、この時代(安土桃山時代)から城の周りの海を埋め立て街づくりを始め、、江戸時代にはかなりの土地に大きな街が出来上がった様である。
その後大坂夏の陣で豊臣が徳川に敗れ落城し、徳川時代に天守閣等大阪城が再建されたが雷等で火事になり、城が崩れ落ちたそうである。 そして今の大阪城は昭和6年に市民の熱意により復興建築され大阪市民の誇りになった様である。
そして、今回尋ねたときはこの復興された大阪城が迎えてくれたが、残念な事が2点ほどある。まず一点目はこの大阪城の造りである。多くのインバウンドと称する外国の観光客が訪れており喜ばしい景色がそこには有るようである。ただ、日本の観光地で日本人が楽しめる場所であるにも関わらず、そこには日本人が探すほど少なくたまたまそこに居合わせた日本人の若いご家族から声をかけれら写真を撮ってあげるお手伝いをした。その時の若いご家族の一言「日本人の方がみえて良かった・・・」出そうである。この状況、この国、少しおかしくなっているのでは・・・。そして二点目はこの大阪城の素材である。松本城、彦根城、犬山城とう昔から残っている国宝級のお城は基本木造なのである。そこには暖かみが有るのである。しかるに大阪城は鉄筋コンクリート造りである。レプリカを造る時は出来るだけ元の城に近づけるのが良いので、鉄筋コンクリート造り大阪城は少し違うのではないかと思うのであるが・・・。インバウンド等の観光客がそれで良いのであればそれでも良いかと思う次第である。コンクリートの城は味気ないし歴史的建物ではないと感じるのである。
今回は大阪城について少し変だなと思うことを述べてみたが、次回は大阪海遊館や道頓堀について少し述べてみようと考えている。 Photographer 岡田 朗
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