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・・・風雲小谷城&長浜城・・・ 
  琵琶湖の北東に位置する小谷城は今で云う滋賀県長浜市に存在する。戦国時代の浅井長政の居城である。浅井長政は織田信長の妹であるお市の方を嫁としてもらい受け、織田信長とは義兄弟としての地位を得た戦国大名であった。そして織田信長に選ばれた長政は信長の義弟として戦国時代に名を馳せた代表する人物だったかもしれないのである。

   


 ここですこし浅井家の歴史について語ると、祖父の浅井亮政の時に北近江の守護大名であった京極氏に仕えており、その京極氏の跡目争いに乗じて実権を握るようになり、その京極氏を北近江から追放し支配するようになったと云われている。


 この小谷城は琵琶湖の北西、北近江の山に作られた日本屈指の山城であり尾根沿いに作られたいくつもの砦や館、そしてそれらの象徴としての本丸は攻めてくるものにとって難攻不落の地形であったようである。


 浅井長政が信長に対して謀反を起こさなければ、ひょっとすると織田信長の天下取りが早まり、次の天下取りは秀吉ではなく長政が来ていたのかもしれない。それほどの人物が謀反を企てたのだから信長の心中を察するものがあり、理解が出来るというものである。そしてこの長政には3人の姫君がおられ、後の豊臣秀吉の側室、淀君(茶々姫)、と京極家に嫁がれた初姫、徳川家2代将軍秀忠に嫁がれた江姫(3代将軍、徳川家光の母)等その血は脈々と引継がれており、今の近代日本にも大きな影響を与えられた方々であったと感じる。


 浅井長政が越前の朝倉とともに信長と戦ったのは姉川の合戦で戦国時代の名だたる合戦の中でも荒ましい戦いのようで、この元亀騒乱と云われている戦いの中で、その後約3年にもわたり信長対長政の戦いが続くのである。やはり、本能寺の変にもつながったであろう長政との戦いは信長にとっても貴重な3年間の喪失であったようである。そして、最後は秀吉が信長方の総大将で小谷城を陥落させたのである。


 このように戦国時代の一場面を思い起こさせられる場所で、今はと云うとそこにお城があった証は石垣の後と木々で覆われたすこしの空地と険しい山城の風格だけである。今でも本丸跡地まで行くには険しい山登りで、1時間以上かかるようである。(近代は心ばかしの車で通れる道路がその中段まで通っており行きやすくは成ってはいるが・・・。) そして山の尾根にあるいろいろな建物があったであろう跡地を見て回るのもすこしの体力が必要かも・・・。


 この小谷城にはNHK大河ドラマで放送された「江〜姫たちの戦国〜」でスポットが当てられ、そのおかげでどこにでもある資料館・小谷城戦国歴史資料館が新たに造られたようである。

 そして次に伺ったのは今の長浜市・豊公園内にある長浜城である。この長浜城は歴史的建造物ではなく昭和58年に再興され市立長浜城歴史博物館として開館したものと聞く。秀吉は、姉川の合戦と小谷城攻めで、その功績により信長よりこの領地を与えられ、当初は小谷城に入城していたが琵琶湖の海運を重きにおいた政策により、昔の琵琶湖湖畔の今浜に新しくお城を建造したと聞く。秀吉の築城としては最初のようで、この城が完成したときにこの場所を今浜から長浜と地名を変えたそうである。この長浜城は徳川時代に湖北の支配の役割を彦根城に移しその役目を終え廃城になったようである。


 今回訪ねたのはそのレプリカである市立長浜城歴史博物館であった。望楼まで含めたその館内は5階建てであり、各階に歴史的価値の高い出土品やジオラマ、パネル展示と特徴を持たせた工夫が施されていた。

  

 この長浜市、訪ねてみるとなかなか面白そうな町であることがわかった。この市内には戦国時代からの鉄砲作りで有名な国友の集落やそこにある「鉄砲の里」という資料館があり、はたまた戦国武将の石田三成出生地があったり、明治時代初期に日本の近代化を目指した鉄道網の一つとして長浜〜敦賀〜今庄までの鉄道敷設した歴史の後が残されているとか、興味深い歴史的建造物等も残されているようである。次回はこれらを目的として新たな出会いを楽しむのも一興かもしれない。

 Photographer 岡田 朗





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