【a_talk-episode 70】

 ・・・墨俣一夜城を訪ねて・・・
  尾張の国、織田信長の野望である天下布武の理想を現実のものとする為の第一歩が今川義元との戦いの桶狭間とすると、美濃攻略の拠点となるこの墨俣城を一夜にて完成させ、戦略を立て、そして難攻不落の稲葉山城を攻略し、その領地を手に入れ強大な戦国大名になり天下を狙えるまでに成った事は言うまでもない。


 そして、この一夜城を構築したのが、後の太閤殿下、豊臣秀吉である。この時は名を木下藤吉郎と言い、まだ駆け出しの侍になったころである。ただこの時から才を発揮し色々と工夫をして一夜城を完成させてようである。先ずは郷にいれば郷に従えの鉄則があるとおり墨俣等の湿地帯や河川にはそれに見合う豪族がおり、その中の一人が蜂須賀小六(蜂須賀正勝)と言われている。これらの豪族を味方で利用し、他国から攻めてくる敵を打ち破り、また木曽で伐採された材木は美濃と尾張の間の河川の織田領で集約し、そして別働隊が水運を利用しながら一気に運び入れ、そして普請は敵の攻撃がしづらい夜間に集約して行った結果、一夜にして城が完成したのである。


 そしてもう一つの防御は敵の騎馬隊から攻撃を防ぐ為の馬柵の設置(約3qにも及ぶ長さ)をしたのである。この頃は知恵の懐刀、竹中重治(通称は半兵衛)もおらず軍師の黒田孝高(通称は勘兵衛)もいない本当の意味で藤吉郎の知恵の粋を尽くした作戦と言えた。この藤吉郎の総指揮になる前には数々の武将が信長の命により試みたが何時も美濃の斉藤家や他の豪族等に邪魔をされ失敗続きで有ったようである。そして見事に藤吉郎が完成させ織田信長美濃攻略の核になったのである。


 今、ここには天守閣のある城がそびえ立っているが、当時の城は木曽川や犀川等が合流する三角州に造られた平屋の砦に近かったようでは有るが、今でも岐阜城(織田信長が改築した稲葉山城)から目と鼻の先にあるような立地が見てとれるのである。美濃の斉藤家は気が気ではないと言う事が想像できるようである。ところで、今回訪ねてみて少し唖然とした事がある。


 そこには歴史的史実を曲げてまでも、城という美しいオブジェを手に入れる為に色々な努力をして、歴史資料館として、当時にはなかった城が建立されたと言う事である。


 それなので史跡の墨俣一夜城を想像すら出来ない状況に陥っているのである。本当にこの場所に存在したのかも分からないのではないかと思うのである。平屋の砦風の造が想像できないのである。ま、木曽川の堤防も改修されているのだから当時の面影を探すのも大変な労力とは思うが・・・。


 ただ、今の建造物の城で未だに工事が施され水門等も新しくなるようで、鉄板の杭が犀川に突き刺さっていて壁になっており何かとハードな絵柄になっている。彫刻や太閤秀吉の銅像等色々なオブジェは施されているが何となく落ち着かないのである。


 新しい観光地を求めるのはその地域の人々の心ではあると思うが、余りにも違った雰囲気にするのは如何なものであろうか・・・。もう少し実際の砦風の史跡も見たいものである。場所の特定も・・・。


 最後に、折角歴史資料館成る城を建てられたのだから、それについて少しの説明を加えるとしよう。入場料は200円、総5階建て(地下階有り)で1階は墨俣の歴史、2階は墨俣築城の歴史、3階は秀吉の立身出世物語、4階はここを訪れた著名人のコメント等の展示、そして5階は絶景が見える天守展望室がある。どれを取っても中々の資料になっており訪れる者を飽きの来させない演出になっているのである。桜の咲くシーズンには多くの観光客が訪れるそうである。

 木下藤吉郎なるものとの新たな出会いがあるかも・・・。

 Photographer 岡田 朗



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